トロイア戦争 [歴史]
ギリシア神話の世界とトロイア戦争
『トロイ』と言えば、ブラッド・ピット主演の作品が有名ですが、同じタイトルの映画作品だが、キャストがまったく違う- ストリーもかなり違う- を最近、動画配給サイトで見ました。
はじめは、1955年の『トロイのヘレン』(Helen of Troy)かと思ったけど、ストリーが少々違うし、第一、エレン役の女優がどうも違う気がする…
あらためて調べた結果、これは2003年に米国で制作されたTVドラマシリーズの映画化だと分かりました。ブラッド・ピットの『トロイ』が2004年制作だから、1年ほど早いことになります。
ちなみに、このTVドラマベースの作品は日本では『トロイ ザ・ウォーズ』と呼ばれているようです。原題は『Helen of Troy』で1955年作のと同じなのだから、同名にすればいいのに、何ともサーチしにくいタイトルとなっています。
『トロイ ザ・ウォーズ』では、ストリーはトロイの王子パリス(マシュー・マースデン)とヘレン(シエンナ・ギロリー)を軸に展開しますが、ギリシア神話もふんだんに取り入れたどう作品は、ピット(があまりにも目立ちすぎる?)の『トロイ』とは一味違った面白さがあります。
『トロイ ザ・ウォーズ』のあらすじ
物語の冒頭に『パリスの審判』が出てくるが、これはギリシア神話の一エピソードで後で発生する『トロイア戦争』の発端となる。
トロイ王イリオスの王位継承社として生まれたアレクサンドロスは、その姉・王女カッサンドラーが「アレクサンドロスはトロイを滅ぼす」と予言したことから海に投げ捨てられるところを羊飼いに助けられ、パリスと言う名前で育てられる。月日は流れ成人したパリスはトロイ城で開催された武闘大会に出場し、そこで王女カッサンドラーはトロイ王にパリスはアレサンドロス王子であることを告げ、パリスは王子として王宮で暮らすことになる。
一方、絶世の美女として有名だったスパルタのヘレンは、ある日、将来、自分の夫となるパリスのことを神のお告げで知らされる。しかし、パリス自身も美の審判の際に、アプロディテからヘレンを妻にするように言われていたのだ。
トロイ王の使節としてスパルタを訪れたパリス王子は、そこでヘレンに一目惚れするが、スパルタ王メネラオスはパリス王子を殺そうと画策したため、パリスはヘレンを連れてトロイに逃げ帰る。
かねてからトロイを攻めることを考えていたメネラオスは、ヘレン奪回を口実に兄のアガメムノンや勇猛な戦士アキレス、聡明なイタケの王オデュッセウスらとともに、ギリシア連合軍でもってトロイへ向かう。そしてここにトロイ戦争の幕が切って落とされることになる…トロイの戦いで、彼らの運命はどう変わるのか。ドラマではトロイア戦争が終わった後のことも軽く触れられている。
史実としてのトロイア
トロイアと言う名前は(アッティカ方言形:Τροία, Troia トロイア)から来ており、イリオス(古代ギリシア語イオニア方言形:Ἴλιος, Īlios イーリオス)とも呼ばれ(歴史学者などはこちらの呼び方をする)、ギリシア神話に登場する都市の名前である。イリオン(イオニア方言形:Ἴλιον, Īliov イーリオン)、イオニア方言形:Τροίη, Troiē トロイエー、ドーリス方言形:Τρωία, Trōia トローイア)、トロイ(英語:Troy)、トロヤ(古典ラテン語:Troja トロイヤ)などとも呼ばれる。現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南(同海峡の東側、アジア側、トルコ語ではトゥルヴァ)にあったとされる。遺跡の入り口には、あの有名な「トロイの木馬」の複製が建てられている。(Wikipediaより引用)
『トロイア戦争』は、ホメーロスに よれば、ボイオーティアのアウリスに集結したアガメムノーンを総大将とするアカイア軍は、総勢10万、1168隻の大艦隊であった。アカイア人の遠征軍は トロイア近郊の浜に上陸し、アキレウスの活躍もあって、待ち構えたトロイア軍を撃退すると浜に陣を敷いた。トロイア軍は強固な城壁を持つ市街に籠城し、両 軍は海と街の中間に流れるスカマンドロス河を挟んで対峙した。『イーリアス』の物語は、双方に犠牲を出しながら9年が過ぎ、戦争が10年目に差し掛かった 頃に始まる。
戦争末期の状況については、『イーリアス』のほか、『アイティオピス』や『アイアース(Aias)』において語られる。トロイアの勇将ヘクトールとアカイアの英雄アキレウス(アキレス)の没後、戦争は膠着状態に陥った。しかし、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考 案し、これを実行に移した。この「トロイアの木馬」の計は、アポローンの神官ラーオコオーンと王女カッサンドラーに見抜かれたが、ラーオコオーンは海蛇に 絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができない定めになっていたので、トロイアはこの策略にかかり、一夜で陥落したと言われている。
トロイアの木馬
ここで、あまりにも有名な『トロイアの木馬』(または『トロイの木馬』)について見てみると、トロイア戦争の始まる前、3つの神託がアカイア軍(ギリシア連合軍)に下された事に端を発する。
その神託とは、
ネオプトレモスの戦争への参加。
イーリオスにあるアテーナー神殿にある神像(パラディオン)がトロイアの外に持ち出されること。
イーリオス城正門の鴨居が壊されること。
で、この3つが果たされなければイーリオス城が陥落することは無いとのものであった。
この時点でネオプトレモスは戦争に参加していたため、オデュッセウスとディオメーデースがパラディオンを盗み出し、巨大な木馬を製作して、トロイア人がこれを城内に入れる際、自ら進んで門を破壊するようにしたのである。
このため、強くはなくとも大工の技に長けていたエペイオスが木馬の製作を指揮することとなり、エペイオスはイーデー山から木を切り出させ(自軍の船の木材を転用したとも言われる)それを材料に木馬を組み立てた。
木馬が完成すると、ネオプトレモス、メネラーオス、オデュッセウス、ディオメーデース、ピロクテーテース、小アイアースらが中に入り込み、最後にエペイオスが入って扉を閉じた。そして、木馬をイーリオス城内に運び込ませるためには、トロイア人に顔を知られていないシノーンが者が1人で残り、敵を欺く役目を任された。残ったりのアカイア軍は寝泊りしていた小屋を焼き払い、船団を近くのテネドス島に移動させた。
credit: Wikipedia
夜が明けると、トロイア人は、ギリシア人が消えうせ、後に木馬が残されていることに気がついた。
アカイア軍が去って勝利がもたらされたと信じたトロイア人は、市内から出てきて木馬の周りに集まり、シノーンを発見した。トロイア人たちはシノーンを拷問し、ギリシア人の行方や木馬の作られたいきさつを問いただしたが、シノーンは、「アカイア軍は逃げ去った。木馬はアテーナーの怒りを鎮めるために作られたものだ。そして、なぜこれほど巨大なのかといえば、この木馬がトロイア城内に入ると、この戦争にアカイア軍が負けると預言者カルカースに予言されたためである」としてトロイア人を欺いた。
欺かれたトロイア人たちは木馬を引いて市内に運び込んだが、アポロンの神官ラーオコオーンと王女カッサンドラーが市民たちを諌めたが、海から2匹の大蛇が現れ、ラーオコオーンとその二人の息子をくびり殺したため、市民たちは考えを変え、城内に運びこむことにした。門は木馬を通すには狭かったので、壊して通した。そして、アテーナーの神殿に奉納した。トロイア人はその後、市を挙げて宴会を開き、全市民が酔いどれ眠りこけた。守衛さえも手薄になっていた。
市民たちが寝静まった夜、木馬からオデュッセウスたちが出てきた。そして計画どおり松明でテネドス島のギリシア勢に合図を送り、彼らを引き入れた。その後ギリシア勢はイーリオス市内をあばれまわった。酔って眠りこけていたトロイア人たちは反撃することができず、アイネイアースなどの例外を除いて討たれてしまった。トロイアの王プリアモスもネオプトレモスに殺され、ここにトロイアは滅亡した。
古代トロイアの遺跡
ト ロイアの遺跡は9層から成り、シュリーマンが『イーリアス』当時のトロイアのものだとした第II層Gは、紀元前2500年から紀元前2200年のものだと いうことがわかった。第III層から第V層は繰り返し破壊の跡があり城塞都市の発展らしいものは見当たらす、紀元前1800年から紀元前1300年に至る 第VI層において、イリオスは城塞都市として再び活発に活動していたようである。『イーリアス』の時代とされるものは紀元前1200年ころの第VII層A だが、これはシュリーマンの発掘によっておおきく削られてしまったため、残念ながらほとんど何も残っていない。
この時期に規模は拡張されている が、それでも曲輪の直径は140メートル程度で、都市機能はかなり小さかったと推察されている。つまり、トロイア遺跡は都市というよりは城塞であるといった方が正確なようだ。(ただ し、周辺一帯の大規模な発掘によっては、曲輪の外側に都市機能が認められる可能性はある)
つまり、実際に存在したと思われるトロイの城はブラッド・ピット主演の『トロイ』や冒頭で紹介した『トロイ ザ・ウォーズ』に出てくるほど巨大なものではなかったということです。まあ。『トロイ』にせよ、『トロイ ザ・ウォーズ』にせよ、神話とミックスしたストリーになっており、その神話ではアポロとポセイドンがトロイアの城壁を作ったとなっているので、神々の作った城塞なら巨大で頑丈、難攻不落ということでホメロスなども誇大して『イーリアス』で詠ったのでしょう。
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トロイア戦争の時代を、ヘロドトスは紀元前1250年、エラトステネスは紀元前1184年、Dourisは紀元前1334年と推定した。トロイア戦争時代と推定される第VII層の発掘では、陶磁器の様式から、紀元前1275年から紀元前1240年と推定されている。
紀元前13世紀中ごろのヒッタイト王トゥドハリヤ4世時 代のヒッタイト語史料に、アナトリア半島西岸アスワ地方の町としてタルウィサが登場する。これはギリシア語史料のトロイアに相当する可能性が示唆されてい る。また、同史料にウィルサ王アラクサンドゥスが登場する。これもそれぞれギリシア語史料のイリオスとアレクサンドロスに相当する可能性が高いと示唆されている。
トゥトゥハリヤ4世の治世はヒッサリク遺跡の第VII層Aの時代と一致しており、パリスの別名がアレクサンドロスであったことが知られている。このため、この史料の記録はギリシア史料によるトロイア戦争となんらかの関係があるのではないかと推測されている。
19世紀のトロイア遺跡発掘の様子
ともあれ、シュリーマンによって発掘が行われるまで、トロイアは神話上の架空都市にすぎないというのが一般的な概念だったのですから、発掘方法などで問題があったことを指摘されてはいますが、シュリーマンの功績は大きなものであったことは確かですね。
参照サイト: Wikipedia
aquacompass 7
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